昭和43年11月06日 夜の御理解



 信心ほど、限りなく深く、そしてまた広く高くというような言葉で言うならば、そういう深さ広さというようなものを感じるものはないと。これは何の道だってその、極めて行こうとすれば、その深さは限りがないと言われておりますけれども、信心においては一層それをお互いが感じさせてもらわなければならないのですけれども、信心をお互いがそういう深いものにしていかない、広いものにしていかない。
 信心ほど深いものはない、信心の世界ほど限りがないものはない。一生修行し続けたところで、まあだこれから先どのくらいあるやら分からない。というほどその、信心を例えば頂きながら、その深さを極めて行こうとしない。それは本当にあの、つまらん事だと思うですね。信心は浅い、一つのまあ、おかげの常識といったようなものでも、ああして、こうしたら、こうなると、たとえ言うようにですね。
 そういうもんじゃない。最近あの、教典をもとにしての御理解を日々頂いておる、その教典を頂かせてもろうて、それをいよいよ思うですね。もう本当に限りがない。まあ私今朝、朝の御理解を頂きよって、もう本当に初めて頂いた御理解なんですけれども、いやあ、ここにこういう御理解の中にこういう深さがあったという事を、私感じたんですけれども。とにかくですね。
 お互いがその、もう極めて行けば行くほど、尽きぬものがあるのですけども、だからと言ってただそれをその、教学的に極めて行くというだけではなくて、やはり自分の信心そのものが深められて行かなければ、教祖の御教えも深いものに感じてこられない、味わえない「       」。 という風に思うんですね。まあ例えて言うならば、柿食えば、鐘がなりなり法隆寺なんというその、句がありますよね。
 まあ今の時期を、まあ句にした物だろうと思うんです、ね。その柿を食うという事と、法隆寺の鐘がどんなに繋がるだろうか、ね。例えてまあ言うならあの、ね、柿、柿の味かね。いよいよ秋の深さを、まあ感じるというような表現をすると致しましょうか、ね。その、もちろんその、秋の情景とか、深まっていく秋のその気分というものがですね、出すためにはこう。
 柿の味と成程柿の味がいよいよ美味しゅうなってくる頃は、もう秋の柿の秋の季節もいよいよ深まって行く時だから、ね、そう言うた方が、早分かりはするごたるけれども、それじゃ全然、句としての味がないでしょうが。ね、それをあれは、正岡子規ですかねあの句は。柿食えば鐘がなりなり、法隆寺。法隆寺の鐘と柿の味がどうその関係があるか分からんけれども、それこそ余韻がある。
 それこそ鐘の音のようにです、どこまでも、どこまでも秋というものを深く感じる事が出ける感じでしょうが、ね。芭蕉の、あの晩年の句に。この道を来る人もなし秋のくれと。ね、本当にこの人、まちっと信心を深めてくれると良いのにと、例えば、私がまあ思うたといたしましょう。そういう時に頂くお知らせが、あの芭蕉の、だからあの、私とおじいちゃんのあそこの所へ芭蕉の木を植えとる訳ですがね。
 あれはそういう意味で私が、ぜひ芭蕉をあそこへ植えてくれと言うて植えてもらったんです。芭蕉は庭にどうでも一本植えてくれ。皆さんでもお知らせを頂かれたら、芭蕉のお知らせを頂かれたら、ね、言うならば神様が嘆いてごさる、師匠が嘆いてござる。本当にこういう有り難い道があるのに、その道を極めて行こうとしない。いっぺん通りの信心、これはこうあってああなるもんだと、信心とはこうだと。
 自分の浅い信心で決めてしまう。そんなもんじゃない。ね、それを決して嘘ではない。けれども、それが本当のもんじゃないて、もっと、もっと限りなく深められて行くものだと。それを極めようとするところにですね、私は信心のけいこという、ね、ここは信心のけいこに来る所という、そのけいこに通うてくる者の姿勢がね、必要じゃないかという風に思うのです。
 昨夜、壮年会の御祈念の後の御理解に、節という事について頂いた。ね、お互いがその節を大事にしようとか、ね。例えば難をみかげとか、難があって喜べとかと、教祖、四神様の御教えの中にあります。ところが果たしてお互いがあの節を受けても、難を受けてもです、それを有り難いと受けておれるかどうか。ね、難あって喜べと仰るがその難あって本当に喜べておるか、ね。難はみかげと。
 本当に難をみかげにしておるか。難は難なりに、ただそこを通り抜けたというだけではないかと。毒薬を変じて薬にするという、やはり毒薬は毒薬で終わっておらんか。それを変じて行くところに、ね、変じて薬にして行くところに信心があるのだ。もうここでは、それこそどれだけ頂いたか分からない難あって喜べ、難はみかげという事は、ね、一切が神愛といったような表現で頂いてきたんですけれど。
 果たしてそれを神愛として頂いておる者は少ない。その証拠にはその節から芽が出てないもん。その節から伸びていないもん、と言う様な御理解を頂いて、まあ今晩の壮年会にね、どう言う様な例えば難の受け方難を受けた。いわば毒と見た時それをいかにしてこれを薬にするかという、どういう信心させてもろうたら薬になるかと言う様な事を焦点に、皆さん今晩のお話は進められたら、がいいですねという事であった。
 私は時間だいぶん遅れてから行きました。その事がようよう、こう検討されておったようです。それであの、こうちょうど善導寺の原さんが、はあ、貴方は節、今日の御理解をどういう風に頂かれますかと言うて、ようするにそして、原さんが言われよるとですよね。節っちゃどげなこつか私にはいっちょん分かりませんて言われる訳ですよね。私はある程度聞いてからガッカリしたんですよ。
 はあ、この人は18年間も、もう朝参りを続けておってからね、しかも一家中で信心しておってから、節っていうて私表現が出来ない、分からんて私には。どうしてですかち言うてから。とにかく私の方は信心させて頂くようになって、おかげ頂くばっかりですから、節はございませんでしたち言われる。もう本当に聞いてみりゃ聞いてみるほどですね、また知っておる私はそのなお更その顔を隠すんです。
 大した事を、素晴らしい事だなあと私は思うたです。ね、あの昌一郎さんの病気、それから夫婦がお日参りを一生続けるといったような神様への一つの神願を立てられてこの方やはり、お日参りを欠かされた事はないし。同時に、奥さんが夜の御祈念も、まあ出来る限りは出てこられる。なるほどその時分までは店も大変繁盛しておったけれども、借金にも、もう非常に困っとったと言われるのが、そのたいして仕事はありよらんけれども、あれは出けた。ね、借金払いは出けた。
 食べるとにも事欠かない。しかもこれが、本当に神ながらに、おかげおかげと言いながら頂いておる。3人娘が嫁に行く時もそうです。用意の出来んちいう事はなかったけれども、それも本当に人が来てから、原さん方、何時の間にこげん用意してあったじゃろうかと、人から言われるくらいな、まあ原さん方としては、最高の仕付けをして、3人の娘達も全部片付けた。
 それなりのおかげを受けて、さあ息子に嫁を呼ぶと言や、子供が出来ると言や、もう思うて見りゃあずっとその、おかげを受けてきておると言う、節がない。私はこれはもう本当にあの、簡単なあの、平凡のごたるけれどもこういう深い信心はないと思うですね。節を知らないというほどしの信心は、ほど素晴らしい信心はないと思うですね。問題はこれが、ただ大きくなって行きさえすりゃいいという感じです。ね、
 そしてならあれだけの御用も出来ていかれる。はあどこで原さんが、節が分からんち言わっしゃった。ね、今朝からもです、夫婦で出てみえてから、その夕べ主人があの、節という事について。けれども本当に私も主人から聞かせて頂いてから、改めて自分方はおかげを受けておるんだという事を感じましたて言うて奥様お届けしております。痛いのが治ったのが有り難いのではない、何時もまめなのが有り難いのぞと。
 いつもまめな中にそういう例えばね、有り難さを感じきらん、皆が。お日参りの徳だとこう、一家中が挙げて信心させて頂いておるおかげだと、まあいう風に私も感じたんですけれどもね。お互いの場合は何時も節ばっかりなの、節だらけ。そしてその節をただ節として受けておるだけであって、なら節を境に芽が出てもおらなければ、節から境に伸びてもいないということ。
 やはり難は難であった、毒は毒であったと。ただそこを通り過ぎただけなんだ、ね。これはそれぞれの信心生活による事でございましょうけれども、そこんところをですね、私は本当にこの深めていく焦点というものをね、もう少し真剣に頂かなければいけんのじゃないだろうかと。本当に、柿食えば鐘がなりなり法隆寺と、法隆寺の鐘と柿とがどういう結びつきか、それでいてそれを、聞く者をして、ね、
 それを読む者をして、ね、いよいよ秋の味わいというか、深さを感じさせずにおかんもの。だから私は思うのに、何時でしたかねあの、久留米の佐田さんの奥さんが頂いておられるように、もう親先生ばっかりはもう、ひょうたんなまずのごたる人だと言うておるお夢を頂いとる、掴み所がない。ね、確かに私自身ですらそれを思うです。私は掴み所がないだろうなと皆が思うです。
 掴み所を、が例えばその急所を掴めるという事が出来るハズがなかですもん。もう昨日と今日は違うんですから、厳密に言うたら、ね。だからなら例えばなら、悪口の上において、あんやつばっかりは、もうひょうたんなまずのごたるヤツじゃと、言うなら悪口になるかも知れんけれどもです、そこにね、限りない私は深さを感じる。あの人の信心は毅然として、キチッとして、ああでこうで、もうキチッとした正確な信心というような信心ではですね、もう実に浅い、おかげも浅い、ね。
 お互い、一つ本気でね、お道の信心の一つ深さに触れていく為に、本気でひとつ信心を、身に、信心の修行をいとうてはならん。信心を進めていかなければ、教祖の例えば、御教えが平凡にいわば響いて来るだけである。ね、頂けば頂くほど、その余韻というか、その深さというか、ね、鐘の音色のように深いものを感じる為にはこちらの信心が、もう一段も二段も深められて行くところに焦点をおかなければならんのに、ね。
 もうこれで事済んだように、もうこれで良いように、ような例えば思い方。いや、思うとらんにしても、そこからぎっすり動かないというようなね、信心では本当にその、せっかくのそうした限りない信心を頂きながらね、金光様の信心を浅いものに、狭いものにしてしまっては馬鹿らしい、ね。本当の信心のひとつ新味というかね、その新味に触れて行けれる信心、ね。この道を来る人もなし秋の暮れ、ね。
 金光大神がここまで尊い道をこのように深く教えておって下さる、ね。その、私は信心をです、私共本気で一つ限りなく深めていかなければいけない。例えば今日私はお道の新聞など読ませてもらいよって、一番初めのところに御理解第三節が、を書いてあったですね。信心とは心が神に向かうのを信心と言うのじゃと。という、それを先覚の信心に見る一心といったような見出しで書いてございますがね。
 もうその天地、あの御理解第3節の頂き方の、まあ言うならば浅さというかね、これが現在の金光教だとのを感じたんです。後からご覧なさい、もうそれは実にその浅いです、ね。ですから結局、信心も深い味わいのおかげになって来ない、ね。私共幸いにしてです、ね、日々本当にその、いやあ本当にこの御教え、この御理解というのは、ただ見過ごしとったけれども、例えば今日の御理解でもそう。
 もう初めて頂いて、あの御理解頂いて。初めてこういう深さのあるもんだ、そしてここんところに私の信心の盲点があったとすら分からせて頂くような感じの御理解だった、ね。ですから、お互いが本気でまちっと極めようという気をね、頂かなければいけない。何も分からん、分からんなりでもいい、本当に痛い痒いがない、ね。本当にあの、おかげを受けていっておるそのおかげの中に。
 愈々そのおかげの深さというものを、それこそ節という事が分からんというぐらいにです、その信心、おかげの深さというものに気付かせて頂いて、改めてお礼を申し上げる信心。そこから、どう在らなければならないか、こういうおかげを受けておる、これに対してどう応えて行かなければならないかと、言ったような事が分からなければ値打ちがないと思うですよね、
   どうぞ。